五條楽園史

見つけて欲しい今日の五條楽園

 
 

高瀬川の桜の元で跳ね遊ぶ子供たちや職人たちが工房で商売に勤しむ町並み。平穏な雰囲気からこの地域が『五條楽園』と呼ばれてきた多彩な歴史と波瀾万丈の過去を想像することは難しいかもしれません。京都駅、清水寺、四条通の繁華街は徒歩圏内ですが、ここは京都の中心部にひっそりと守られてきた隠れ家のような街です。南北に五条通りと七条通り、東西には高瀬川と鴨川に囲まれた『短冊形の狭い土地』はまるで都会のオアシスです。

レトロな町家の新たな活かし方

2本の川に挟まれた五條楽園は、逆さまにした長靴のような細い土地

『五條楽園の未来』ウォーチェスター・ポリテクニック大学 クレイマン、ベッシュ、リペッジ、ドゥフィー

高瀬川 満開の桜  

甦る昔ながらの銭湯

『五條楽園』の面影を求めて来る人もいれば、昭和の家族的な雰囲気を懐かしむ人、二つの美しい川の様子に惹かれて来られる人もいます。レトロなカフェやバーで地元の人と、また工芸工房では昔ながらの職人さんと交流するゆるやかな時間が流れます。 しかし、かつてのロマンティックな名前の由来と華やいだ時代や激動の歴史を知っている人は少ないかもしれません。

シンボルの京都タワーまで徒歩10分(京都駅前)

『五條楽園』とは 

五條はかつて芸者商売が隆盛を極め、併せて建築や美術工芸品も発展した活気ある歓楽街でした。 現在ゲストハウスやレストラン、アトリエなどに転身した京町家の多くは何世紀も前には宿、置屋、お茶屋だったのです。

芸舞妓たちが歌舞で客をもてなしたお茶屋

因みに京都の花街では芸者を「芸妓(げいこ)」と呼び、見習い中は「舞妓(まいこ)」と呼びます。置屋(おきや)とは芸者たちの住まいでもあり所属している家で、お茶屋は芸舞妓が信頼のおける客をもてなす豪華な宴会をする部屋がある家屋です。歌舞練場(他の地域では「見番」と呼ばれることがある)は、芸舞妓たちが稽古を重ね正式な舞台を披露するところです。 年に1、2度は遠方からも多くの客を招いて公演が行われます。

歌舞練場として使われた五條会館。1917年、大正時代の3階建て木造建築。再生はいかに

本番の舞の披露は五條会館歌舞練場の大広間にて行われた。古くからの近隣の住民はこの雅な思い出に浸る。SMILE LOG 写真

五條の歴史は約400年前、京都への米穀や材木の輸送を目的に掘られた運河だった高瀬川が深く関係します。鴨川が商人や巡礼者の運送に盛んに利用される一方、この運河は人々の荷物の輸送、水運、貿易、倉庫業に使用され、必然的に娯楽などのサービス業で賑わいを遂げたのです。

貨物運搬のために約400年前に掘られた高瀬川

京のまちかど

今日の高瀬川に当時の面影を残す船

歓楽街や花街と呼ばれる地域がいくつも存在していたころ五條は運河の流通場のため庶民の集まる憩いの場となりました。奇しくも平安時代の貴族、源融(みなもとのとおる)の邸宅とされる『河原院(かわらのいん)』はこの辺りでした。(源融の人物像や邸宅は源氏物語の光源氏のモデルになったと言われています。)千年前の小説に描かれた人物のように後世の人々もまたこの地で日常の苦難から休息を求めたのでしょう。

ジョン・カーペンター/メリッサ・マコーミック共著(メトロポリタン美術館出版)の表紙。源氏物語より歴史、芸術、それらの解釈をまとめた本。

幕末の1800年代になると五條周辺は京都でも有数の歓楽街となり、大正時代(1912-1926)にはピークを迎えました。 銅板葺きの唐破風(からはふう)を施した旧お茶屋の建物の多くはこの時期に建てられたものです。 

反転曲線を用いた唐破風は、遊郭の建物玄関にもよく見られた。日本独自の意匠かは定かでない。

お座敷遊び以外にも歓楽街にありがちな賭博も行われたそうです。 1889年に花札製造業としてこの地で創業した任天堂は、その後トランプや百人一首等を日本の家庭へ普及させ、任天堂生まれのマリオとルイジは海を渡り、ポケモンは今でも世界中に出没しています。

ここは山内任天堂として創業された地。

かつての任天堂本社ビルは、いまや華麗なホテル「丸福楼」へと改装されました。

1960年代初頭には五條楽園には約250人の芸者、200軒程のお茶屋と20軒の置屋が営業し、舞や唄で客をもてなしていたと記録されています。各界の著名人、政治家、地元の名士、海外からの訪問客など様々な人たちが五條に魅了されました。

しかし、高度経済成長期を迎え、西洋化が進むにつれて和服姿が減少るようにお茶屋ビジネスの衰退が加速しました。芸者の需要は激減を遂げたのです。近年地域活性化の動きとともに『五條楽園』は過去の記録となり、現在では旧五條楽園とも呼ばれるようになりました。新たなチャンスを模索する若者たちが立地条件の良いこの地域を選び、独自の店舗を展開しています。

現在、わずかながら残る旧お茶屋と旧置屋の建物は 内装が施され宿泊施設やレストラン、アトリエなどへと変化を遂げました。 立派な歌舞練場などは今後の活用方法を検討中です。住民と行政は文化建築遺産の保存をしつつ、ここ京都の一角に新たな息吹をもたらすよう尽力しています。旧五條楽園は文化活動や起業家の発信の場、レジャーアクティビティーなどが交差し合う街です。生活や仕事の場でもあり、若さと活気の溢れる地域として新たなフェースでかつての栄光を取り戻すに違いありません。

かつてのお茶屋は、ゲストハウスに